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December 8, 2025

Diary 2025/12/09

ヒトカラに行った。歌と記号接地。歌と歴史と物語。

カラオケ

昨日はバイトのあと、一人でカラオケに行った。私は歌うのが好きだけど、下手なのでよくこうしてコソコソとヒトカラに行くことがある。

たまには思い切り歌いたい

一人暮らしを始めるまで私は自分の部屋でも声を出すことができないので、たまにカラオケで思いっきり大きな声で歌うのはすごく楽しい。声を出す、というのは情報を伝える以上に自分がここにいることを感じるためにとても大事なことのような気がする。

『生成 AI 時代の言語論』で、歌っているときだけ記号接地できる音楽家というのが紹介されていた1。記号接地というのは記号(例えば言葉)と事物を結びつけることだ。その音楽家は会話はちゃんとできるし視覚にも異常はない。けれども歌を歌っていなければ、靴を履いてくださいといわれてどれが靴なのかわからなかったり、帽子と間違えて妻をかぶろうとしたりする。詳細は割愛するが、記号接地という基本的で不可欠な能力には歌を歌うというようなリズムを取る作業が密接に関わっている。 この話は極端な例だけど、健常な人であってもリズムを刻むという体験が乏しい生活を送っていると、頭で考える言葉の世界と実際に感じる実世界のつながりが覚束なくなるのではないだろうか。

一人の物語ではちっぽけすぎる

また話を変えるけれど、歌(や小説といった作品)には自分の物語をもっと大きなものにつなぐ役割もあると思う。あいみょんの『君はロックを聴かない』には「僕はこんな歌であんな歌で恋に焦がれてきたんだ」という歌詞がある。自分に起きた出来事と歌の歌詞を重ねて勇気づけられたり安心したりするのは多くの人が経験していることだと思う。例えば勇気を出して告白して断られたとして、それを自分のイタい黒歴史と思うこともできるけど、Mr.Children のシーソーゲームを聴いて同じことが途端に武勇伝にすら思えてくるかもしれない。自分一人の体験を他人の言葉で再解釈して、それが社会通念の中でどう位置づけられるかを私たちは作品を通して学んでいく。

自分一人の物語をもっと大きなものに接続するのは何も歌だけではない。例えば歴史。漫画『チ。-地球の運動について』でヨレンタという登場人物から語られる台詞を参照したい。

なぜ人は歴史を見出すことを強制される認識の構造をしているのか。私が思うにそれは、神が人に学びを与えるためだ。つまり歴史は神の意志のもとに成り立ってる。 (中略) 神はこの世にある悪を善に変える。それが神の意志。神は人を通してこの世を変えようとしてる。長い時間をかけて少しずつ。この今は大いなる流れの中にある。とどのつまり、人の生まれる意味はその企てに、その試行錯誤に、善への鈍く果てしないにじり寄りに参加することだと思う。

(中略)

でも歴史を切り離すと (中略) 人は死んだら終わりだと有限性の不安に怯えるようになる。歴史を確認するのは神が導こうとする方向を確認するのに等しい。だから過去を無視すれば道に迷う。

(出典: TV アニメ『チ。-地球の運動について』第 20 話 ヨレンタの台詞より書き起こし/太字は引用者による)

歴史を学ぶ本質的な意義が「過去の失敗を繰り返さないため」とは根本的に違うところにあると気付かされる一節だ。 また、ここでいう神というのは特定の宗教の信仰の対象を指していないと思う。強いて言えば「もっと良い世界を僕らで作れるはずだ」という希望への信仰だろう。

よく同年代の友人から、「やりたいことがみつからない」という話を聞くことがあるが、それは彼らが歴史から切り離されてしまったからではないだろうか。 新書『東大生はなぜコンサルを目指すのか』2によれば、「自己責任で稼ぐが勝ち」といった個人主義的な思想が日本で広まっていったのは 2006 年くらいのことだったようだ。私が小学校に入ったくらいの頃だから、私の世代はずっと個人主義的な思潮の中で育ってきたということになる。 自分には、今の日本社会に漂う孤独感や焦燥感がヨレンタの言う「有限性の不安」の現れに思われて仕方がない。いずれ人は自分ひとりの物語だけでは満足できないのだ。

興が乗ってつい話を飛ばしすぎたけれど、今日の日記は一言でまとめられる。

カラオケ楽しかった!

Footnotes

  1. 大澤真幸; 今井むつみ; 秋田喜美; 松尾豊. 生成 AI 時代の言語論 THINKING「O」 (p. 86).

  2. レジー. 東大生はなぜコンサルを目指すのか (集英社新書)