新しいペン
手書きの文字は喋りだす
以前イベントで貰ってしばらくリュックの脇ポケットに刺したままにしていたペンを、先日初めて使ってみた。私は紙にものを書くときはいつもボールペンを使うのだが、どんなボールペンを使うかということには大して意識を割いてこなかった。ところが、このブログでタイピングで日記をつけ始めたからなのか、そのときそのペンで紙面に書かれた文字が案外に可愛らしく感じられて、書いていてとても楽しかった。
それは普段使っているボールペンよりもインクの出が良く、太くて堂々とした文字を書くのだ。これはちょうど、カラオケで歌っているときに自分の音域と原曲のキーがぴったりと一致して音程を難なく合わせられると気づいたときの喜びに近い。これまでの細い文字では日記を書いていても、紙面に映される文字がどこか頼りなく自分の日常まで凡庸で味気ない感じがしていた。反対に、文字の太さと罫線の間を埋める存在感の強さは日々の充実を感じさせてくれる。
ショーペンハウアーは『文体は精神の顔つきである』といっていたが(私がこの日記でドキドキしながらもあえて「私」なんていう慣れない一人称を使い続けているのも、人前ではせめて寝癖を直しておこうという種の努力にほかならない)、手書きの文字には精神の肉声が宿っている。文字の太さの他にも、荒々しく枠からはみ出すような文字からは自信のある明朗な声が、くるくると回るような文字からは上機嫌で楽しげな声が聞こえる。
記録・共有するうえではやはり文字をタイピングしてしまうのが便利だけれど、それはいわば機械音声で雑談配信をするようなものだ。ブログの記事に人間味を持たせるためには紙のノートをスキャンするのも一つの手だが、機械音声の音程をチューニングするように、感情のニュアンスをうまく伝えられるような作文の技術が欲しいところだ。
文章を「描く」という体験
また、単に文字が太くなる、というだけではなく文字が潰れないように注意して書くために整った見た目になる、ということもありそうだ。書く内容にかかわらず文字が綺麗なだけで充足感を得られる。文章を書く、というより美しい絵を描くということの喜びに近い。そしてこの喜びは手書きで書いて初めて得られるものだ。
まず、これが描く喜びであるというのは文字情報を必要としないという意味だ。例えば真っ白な紙に好きなように線を引いてみる。好きなように、とは何か描く対象を思い浮かべずにただ気持ちよく筆を動かす、ということだ。そうして特に何も表してはいないけれど抽象的に美しい絵が出来上がる(ことがある)。名画でなくとも、文字情報なしに私たちは美しいと感じることができる。
この美しい絵が描く前から頭にあった訳ではないということが重要だ。 國分功一郎の『手段からの解放』ではカントの批判哲学を紹介する形で、美しいと人が感じる状態について「そうあるべきだと言いうる根拠がないのにそうあるべきだと感じてしまう状態1」だと説明されている。
端的に言って、書いて(描いて)みるまで美しいかはわからないということだ。自分が書く文字がどんな見た目をしていてどんな印象を与えるのかは予測できない。入力したとおりに律儀に表示してくれるタイピングでは得られない体験だ。
Footnotes
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國分功一郎. 手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)(pp. 45-46). ↩
